カワニシんち、ガラス屋でいいなぁ

 僕の実家の家業はガラス屋だった。父親が営んでいた「河西ガラス店」である。主な仕事は割れたガラスの修理や網戸の張り替え。自宅の1階が店で、家族の住まいは2階。修理依頼の電話は毎日何本もかかってきて、父は朝から晩まで忙しく働いていた。僕は「ガラスって、そんなに割れるのかな?」などと呑気に思っていたが、僕とひとつ下の弟を私立大学まで通わせてくれたのだから、それなりに繁盛していたんだろうなぁと、いまになって思う。

 ガラス屋の息子でよかったことが、ひとつある。ガラスを割ってしまったとき、父に修理してもらえること。野球少年だった僕は、じっさい何度か他人の家のガラスを割ってしまったことがあった。『サザエさん』でカツオがやらかしてしまう、あれである。そんなときは父がすかさず出動してくれた。中学の野球部の部室のガラスを友だちが割ってしまい、父が修理しにやって来たときはとても感謝された。「カワニシんち、ガラス屋でいいなぁ〜」と言われたときは、ちょっと誇らしかった。

弟が投げつけた、石ころがヒット!

 しかし父が直せないガラスもあった。小学生のとき、家の近所で遊んでいたぼくと弟が大ゲンカ(理由はなんだったか覚えていないが)、エキサイトした弟は、なんと僕に石ころを投げつけた(よい子は絶対真似しないように!)。石は地面に叩きつけられ、バウンドして路上駐車していたクルマの窓にカツーン!とヒット。 一瞬で粉々に砕けた窓ガラスを見て、僕は初めて、クルマのウィンドウってふつうのガラスとは違う、特別なものなんだ……と知った。

 クルマの窓に使われる「強化ガラス」は、名称どおりふつうのガラスより衝撃に強いが、いざ割れると粉々に砕ける。すると破片は角のない粒状になり、ガラス片によって大きなケガをするリスクが少なくなるからだ。
だが、残念ながら強化ガラスは、父の扱う範疇ではなかった。小学生だった僕にはわからなかったが、きっと高い修理代がかかったはずだ。石を投げた弟はワンワン泣いていた。

鈴鹿からの帰り道、ハイエースの窓は割れた

 クルマのガラスを割ったことは、じつはもう一度ある。大学生の夏、仲間4人で二輪の耐久レース「スズカ8耐」を鈴鹿サーキットまで観に行った帰り道だ。僕らは仲間の一人がバイクレースのトランポとして使っていたハイエースで出かけていた。日曜の決勝レースが終わり、鈴鹿から千葉への帰路、僕らは深夜の東名高速を走っていた。

 岡崎を越えたあたりで「ガン!」と、何かがフロントウィンドウにぶつかった音がした。次の瞬間、ピキピキピキ〜とガラスが割れた。くそ〜、飛び石か! ヒビ割れは瞬く間に広がり、目の前の視界を遮った。

 夜の高速道路、どんどん目の前が見えなくなっていく。焦った僕らは、目の前のガラスをガシャンガシャンと割り砕いて、なんとか視界を確保しようとした。運悪く雨も降っていた。フロントウィンドウのなくなった運転席で、僕らは強い風雨を受けながら走り続けた。後席に乗っていた仲間が、荷室からバイク用ヘルメットを見つけ出し、前席の僕らに渡した(バイクレースのためにヘルメットが積まれていたのだ)。そして僕らはバイク用ヘルメットをかぶり、窓のないハイエースを走らせ続けるという、まるでマンガみたいな体験をしたのだった。

あのとき「合わせガラス」だったなら

 僕らは次のインターチェンジで高速を降り、料金所の係員に事情を話して自動車ガラスの修理屋さんを呼んでもらうことができた。高速のインターまで出張して直してくれたおかげで、無事帰ることができたのだが、修理代は確か7、8万円ぐらいかかったろう。ハイエースに同乗していた仲間4人で割り勘した、と記憶している。

 1987年以降、道路運送車両法によりクルマのフロントウィンドウには「合わせガラス」を使うことが義務付けられた。2枚のガラスの間にフィルムを挟み込んだ三層構造で、強い衝撃を受けてもヒビが入るだけで視界を大きく妨げず、粉々に砕け散ることもない。つまり現代のクルマでは、あのときの僕らのような悲惨でカッコ悪い目に遭うことはないのだ。しかし今でも夜の高速を走っていると、僕はときどきふとあの“深夜の東名高速ガラス割れ事件”を思い出す。

河西啓介

河西啓介雑誌『MOTO NAVI』創刊編集長含め、計3誌の編集長を務めた。近年は二輪、四輪を中心に雑誌以外のメディアでも活動し、「モーターライフスタイリスト」を自称するとともに、バンド”ROAD to BUDOKAN”(ロード・トゥ・ブドーカン)のボーカルも務めるなど、音楽アーティストとしての顔ももつ。